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こども支援プロジェクトOMODOCの動向記録と奮闘日誌です。
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(前編の続きです)


10分程車で移動した後、石巻専修大学共創研究センターに着きました。
避難所であった大学は、建築物自体は無事のようで壊れた跡などは見られず、
とても設備が整っている専修大学に取材陣は感嘆と興味を表してました。

専修大学の先生方との話し合いの為に会議室へ移動して、お互いの自己紹介から始めました。
我々が此処へ来た目的とこれから始めようとしている事を話すと、
大学の先生方も賛同して応援をもらいました。

主に話した内容としては、
『大震災が起った当時の大学の状況』
『震災によって授業再開が遅れる事になり、生徒達が学力の低下を恐れている
それによって先生と生徒両方がナイーブになっている』
『第三者から見た我々の立場』

などでした。
それと同時にこんな意見も出ました。

『実験的な意義で無闇に被災地に来てほしくない』
『経験を積んでから被災地に行く方が良い』
『やり方が問題なので、それを間違えなければ良い』

この当時、我々は出来立てのグループだったので、
とくに実績や話題なども無い、ハッキリ言えば実行能力『未知数』の域。
現実をズバッと言われたので、これを強く受け止めました。


一時間半程話し合って、我々は次の目的地である『懇談会』に向かう事になりました。
専修大学の先生も一人ご参加する事になり、我々は集合場所の「アゴラ」の店まで移動。

参加者の皆様は既にお揃いで、我々が一番最後に店に入りました。
『被災地のこどもを語る~こどもに今わたし達が出来る事~』というタイトルの懇談会です。
今回参加していたのは全員今回の地震で、
「ご家族を無くされた人」、「避難所で生徒達を守っていた先生方」、「取材陣の方々」、我々「関東からの大学関係者」などでした。

被災地の学校の先生方は自身の身に起こった事、生徒達への配慮、学校の運営の動きなど
様々な問題に憔悴しているようでしたが、それでも立ち直って行こうとする気力と活力が言葉の一つ一つに宿ってました。

学校運営の形態を立て直そうと行政へ申請しようとしている先生の訴えはとても衝撃的でした。
なんでも学校の運営の最終決定は校長先生が取り仕切っているなので、
個々の学校の動きも校長先生次第なんだそうです。
参加している先生方の話には必ず校長先生の言葉が出てきて、「とんでもない判断ミスだ」や「適切な判断で助かった」と、学校ごとに状況が違うのです。

小中学校の先生は義務教育のこども達を預かっている立場なので、
誰より迅速な支援とより良い状況を求めています。
ですがその場の判断と決断が、被災地の人達の生活を左右するので、常に緊張しっ放しなのです。
「人員不足」、「一人にあてられた過重作業」、「自身の家族の心配などでノイローゼになりつつある」、「過労で倒れた人がいた」、など未だ大変な状況下にあります。
『被災地の中でさえ、これほど一人一人の考えが違うのか』と、取材活動に来て一番衝撃的な話を先生方から聞く事が叶いました。

我々はただ聞く事しか出来ませんでした。話をしている先生方の表情と言葉に顔を向ける事しかできませんでした。 本来この懇談会に「質問の時間」もあったのですが、もしあったとしても「それは本当に「質問すべき事」なのか?」と、逆に不審に思ったのです。

こうして懇談会は夜11になってから終わり、我々は帰路へと着いたのです。
帰路の車の中は口数は少なく、やり切れない気持ちが襲ってきました。
次の日はそのまま帰るだけだったので、今日のうちに収穫出来た事を生徒達はまとめました。
やり切れない気持ちはもちろんありましたが、その分「絶対、何か出来る事がある筈だ」という気持ちも同時に生まれたのです。 関東にいる仲間達に向けて、生徒達は論議に論議を重ねて情報をまとめてました。


帰ってきて早一ヶ月が経ちますが、未だにあの場にいた時の気持ちが何処かに残ってます。
「いまあの場所はどうなっているのだろう?」「少しは復興が進んだのだろうか?」
そういった言葉ばかりが浮かぶのです。

取材班の全員が居残り班の仲間に報告した事によって、他の仲間達も強く受け止めてくれたようで、
いまでは「つながり」が主題のワークショップを、一致団結で盛り上げていってます。

この被災地への取材の旅を終えてみて、
我々の見て聞いてきた事全て、一つも無駄なんて無かったと心からそう感じます。
初めに考えていた主旨も、新聞で拾ってきた情報も、全て必要な事だったから

そして19日にはまた東北へ、今度は被災地でワークショップをする目的で向かいます。
『今度こそ何か「つながり」を作ろう。』
少しでも早い復興と、人と人の「つながり」をつくる為に。



2011年 8月 9日 投稿 web班いのむ〜

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ただいま宮城県の石巻市現地にてOMODOCのメンバーが活動しております!

今現在進行しているのは立体万華鏡を扱ったワークショップで、報告によれば大盛況だとのことです。
皆さんのアクションが気になっていたので、この返事に我々もホッと一安心しました。


今回は現地になるので、今までとはまた違う状況の中、
現地組メンバーがどう行動するのかが、今回の出張の要点になるでしょう。
そして一番気になるのは、現地のこども達の様子です。

第1回目の現地出立は『取材』でした。
その時はこども達と出逢う状況がほとんど無かったので、至極悔しい想いをしたのを憶えています。
しかし今回はファーストコンタクトとなるので、
『一体何が変わっているのか』『その状況下で我々は何をすべきなのか?』
が更に良く分かる機会です。

彼らの帰還後の報告がとても待ち遠しく、とても気になります。
その事も含めて今後の記事もしばらくお待ちください。
彼らが無事に帰還する事を祈って...。


P.S.
この記事は投稿者の主観も多少入っているので、近々全員の心境もまとめて上げたいです。
まずは簡易な自己紹介も含め、本部組のメンバーに話を聞いてみる予定です。

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【7/11の取材班の活動】

『行動予定表』
10:00 石巻市内被災状況視察
10:30 女川町の病院をみる。撮影行動。
14:00 北上川河口のアートカフェ『川辺の散歩道』三浦頼子さんを訪ねる
15:30 石巻専修大学共創研究センター・大学開放センター訪問
18:30 「被災地のこどもを語る~こどもに今わたし達が出来る事~」
矢本駅前 みんなのお店『アゴラ』にて
石巻の小学校教諭 石垣好春先生 他4名
復興ボランティア活動をされている方々と交え懇談会
23:00 名取に帰宅


前日の衝撃から我々は未だに抜け出せずにいました。
重い面持ちで私達は石巻へと向かったのです。

移動して1時間程、私達は石巻市へと橋を踏み入れました。
辺りの木は潮の所為で(また汚染水の所為で)みんな枯れていました。
空気が酷い匂いで満ちていて、窓を開ける事が出来ませんでした。
色んな建物が、みんなみんな崩れていました。

文にして書くとこんな表現しか出来ませんが、現実はそれ以上です。
その中で復興作業に勤しんでいる人もいるので、忘れてはならない状況です。

その石巻市の中の荒廃した小学校の撮影に掛かりました。
小学校の周りもそうですが、火災で焼けた灰の匂いがマスクをかけても臭いました。
校舎は至る所に焦げ跡があり、浸水した潮の跡もハッキリと残って、
校舎の周りはガレキばかりで何も無くなってました。
その場は灰色でした。

小学校の取材を終えると、今度は病院の見学へ行きました。
海辺に近い丘の上に建てられた病院でした。
そんな高い所でさえ津波が越えて飲み込んだのが、病院の壁に残された潮の跡で分かりました。
当然丘の下は全て灰色でした。中には真横に倒れたビルもありました。
「おだづなよ!津波!」の文字を忘れる事が出来ません。

昼食後、石巻市の撮影を済ますと『川辺の散歩道』の三浦頼子さんを訪ねに行きました。
北上川に起った災害の話、近隣の小学校に避難しているこども達の話、地震が起る前と今の違い。
たくさんのお話を聞く事が出来ました。
三浦さんが保管していた被災直後の写真、『北上川』の水はとても濁っていました。
話の後に、三浦さんはアトリエとワークショップの出来るスペースを案内して下さり、
その上流木の素材がある事も教えて下さりました。

話を聞いていて、一昨日の心境であれば『尚のこと今進行してるWSを実現させよう!』と
考えていたのだろうと思います。
ですが昨日の衝撃以来、視界が変わった我々は(各々なので明確な事は言えませんが)
『これを使えばみんな楽しめるかな?』とか
『こういった事をすれば、もっとふれあえるかな?』などその場で楽しめるWSの事を考えてました。

こうして三浦さんに別れを告げた後、
私達は被災地の避難場所になった大学へとむかったのです。

(後編へ続く)


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昨日のWSの経験を忘れないうちに、今日早速【反省会】をしました。
様々な意見が出たので、一部を抜粋して載せます。

【問題点】
・人数が多すぎて名前を覚えきれなかった。
・WSのゲームに参加はしていたが、最後まで話をしなかった子がいた。
・アイスブレイクのゲームのやり方を上手く伝える事が出来なかった。
・呼びかけが足らなかった。(もっとこども達に積極的になるべきだった)

【提案】
・誰がスタッフなのかわからないので、みんな共通する服、もしくはかぶりもの等を着ける
・ゲームのレパートリー、アイスブレイクを増やすことが必要
・顔のアップの画像でお化けの顔っぽいものはPTSDを引きおこすのでは?
・アイスブレイク前に準備体操があってもいいかもしれない
・飽きちゃった子の対応、ぐずってしまった子の対応はどうするか?

と言った具合に、多くの意見が出ました。
反省点があるという事は、良点も必ずある筈!
というわけで良点もピックアップしてみました。


【良点】
・タウンニュースを見てきた人が多かったと思うので、新聞等への情報を流す事が大切だと思う
・おもど君人形は子どもに人気で、あってよかった(メイちゃんありがとう!)
・考えるものより、感じるもののほうが子どもたちは好きかもしれない
・体を動かすゲームはよかった、恥ずかしがり屋にもやりやすかった
・最後に動画を流したときに感動していた

これらの反省点をふまえ、よりよく活動出来る様に、今後も応援もよろしくお願いします。
次回、再び7/11の取材レポートです。

P.S.
模造紙に内容をまとめると、とても分かりやすかったです。
大きい紙はあるだけで目立つので、存在感もとても重要ですね。

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(7/10 取材班の活動:前編の続き)

ヤマザキ先生と合流後、
宮城県立美術館にて斎正弘さんとの会談が始まりました。

前述載せた通り、我々は【葛藤】を持ち込んでいたので、
こども達と関わりの多い人なら、その答えを知っているのではと思ったのです。

ですが、そこでも我々は葛藤を抱え込む事になったのです。
斎さんもまた同じような問題定義を私達に投げかけました。
それは「ふれあい(コミュニケーション)の取り方」です。

「ふれあいをとることで話し合う」事に悩んでいた矢先でした。
その「ふれあいの取り方」も我々は不十分だったのです。
「どうすればこども達は喜んでくれるのか」、「こうすれば深く残ってくれるだろう」、
と一方的な想いが走っていたので、気持ちを受け取る側の想いを考え損ねていたのです。


こうしてその日の取材を終えて、我々は帰路へと立ったのです。
宿に帰って早々、生徒達は集まって相談をはじめました。
とにかく話し合わずにはいられなかったのです。

次いで出てくるのは、取材に来る前までの想い。
しかし「もっと違う」と生まれてくる『思いやりの意味』。
日を跨いでも話はつきませんでした。
そして我々は取材に来る前の企画を、また一から作り直してみる事に決めたのです。

昨日とは違う気持ちを抱えて、次の日の懇談会で何を思うのか。
一体何が生まれるのだろう...と、期待と不安を抱えながら解散しました。

次の日7/11に続きます。


P.S.
この日も小学校(荒浜小学校)の取材をしにいきました。
今度は学校内に入れるとあって、みんな記録を取るのに必死でした。
1階廊下の天井を見上げると土と枯れ草が張り付いていたり、
3・4階には非常食と空のペットボトルの跡があったり、必死に生きている跡がありました。
行き場の無い怒りが、その場所に残っていた。
でも黒板に書かれた応援の寄せ書きが『救い』でした。
『がんばろうみんな』

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グループ名
HN:
おもどっく
性別:
非公開
自己紹介:
[omodoc] とは、
女子美術大学メディアアート学科が立ち上げた子供支援アートプロジェクト。
「わたし達も何か出来る筈」、その想いを抱きながら今日も動きます。
ついった〜
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