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こども支援プロジェクトOMODOCの動向記録と奮闘日誌です。
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今回はアニメーション制作班の一人、ヘンリーが東北へ言った時の感想を載せたいと思います。
ヘンリーは前回の現地取材には参加していなかったので、始めて東北の地を訪れたのです。
それと同時に、OMODOCの中では始めてこども達と『ふれあう』ので、よりWSに必要な要素を知る事が出来る人達でもあったのです。

今回はOMODOCのWSと言うより『万華鏡制作のWS』だったので、
『今後どのようにして行うのか』
という観察と、WSの実体を知る体験の形でした。



石巻市に入ったとき、「ここは本当に日本なのか」と思いました。
現在はずいぶ ん瓦礫が片付いたとの事ですが、海側のまちはまだまだ瓦礫が残っていました。
ワークショップ会場である川辺の散歩道『DaDa』では、津波によって駄目になってしまった床も綺麗なフローリングに張替えられ、ワークショップをするのに最 適な空間に仕上がっていました。 5、6日に行った万華鏡ワークショップはワークショップは大盛況でした。
WS中、最初は黙って作業をしていたり、恥ずかしがって何も言わない子供が何人かいました。

ですが、自分の万華鏡が出来上がると、積極的に見せあったり、強張っていた表情が笑顔になっていました。
「子供たちが楽しんでくれた」という実感が湧き、ますます仙台、石巻でのワークショップを沢山行いたいという 気持ちになりました。




以上が彼女が東北の地で感じた出来事です。
我々が知りたいこども達への『対応』を彼女達は多く吸収したようなので、その後の
第二回目の「日本フィルの『四季の巻』」では、彼女達の大活躍な行動で成功を収める事が出来ました。
今後もヘンリー達の情報を頼りに我々は活動を行います。

ヘンリー達の詳しい報告は授業期間内でも発表がありましたが、それを載せたい所ですが今回は割愛します。
現在進行中の大作業が落ち着いたら、また更新出来る時に載せたいと思います。

それでは、次回は(恐らく)東北突入です。


P.S.
昨日は終戦記念日でした。
正午のNHKの放送でも東北の話題があげられていました。
今の東北はある意味で戦争です。
奪われたのは『つながり』、奪ったやつは『自然』。
苦しくて悲しいあの出来事から早5ヶ月が経ちました。
少しずつですが『つながり』は生まれて、色んな人が歩み始めている。
「『つながり』は人を救える」、我々はそう信じています。

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(前編の続きです)


10分程車で移動した後、石巻専修大学共創研究センターに着きました。
避難所であった大学は、建築物自体は無事のようで壊れた跡などは見られず、
とても設備が整っている専修大学に取材陣は感嘆と興味を表してました。

専修大学の先生方との話し合いの為に会議室へ移動して、お互いの自己紹介から始めました。
我々が此処へ来た目的とこれから始めようとしている事を話すと、
大学の先生方も賛同して応援をもらいました。

主に話した内容としては、
『大震災が起った当時の大学の状況』
『震災によって授業再開が遅れる事になり、生徒達が学力の低下を恐れている
それによって先生と生徒両方がナイーブになっている』
『第三者から見た我々の立場』

などでした。
それと同時にこんな意見も出ました。

『実験的な意義で無闇に被災地に来てほしくない』
『経験を積んでから被災地に行く方が良い』
『やり方が問題なので、それを間違えなければ良い』

この当時、我々は出来立てのグループだったので、
とくに実績や話題なども無い、ハッキリ言えば実行能力『未知数』の域。
現実をズバッと言われたので、これを強く受け止めました。


一時間半程話し合って、我々は次の目的地である『懇談会』に向かう事になりました。
専修大学の先生も一人ご参加する事になり、我々は集合場所の「アゴラ」の店まで移動。

参加者の皆様は既にお揃いで、我々が一番最後に店に入りました。
『被災地のこどもを語る~こどもに今わたし達が出来る事~』というタイトルの懇談会です。
今回参加していたのは全員今回の地震で、
「ご家族を無くされた人」、「避難所で生徒達を守っていた先生方」、「取材陣の方々」、我々「関東からの大学関係者」などでした。

被災地の学校の先生方は自身の身に起こった事、生徒達への配慮、学校の運営の動きなど
様々な問題に憔悴しているようでしたが、それでも立ち直って行こうとする気力と活力が言葉の一つ一つに宿ってました。

学校運営の形態を立て直そうと行政へ申請しようとしている先生の訴えはとても衝撃的でした。
なんでも学校の運営の最終決定は校長先生が取り仕切っているなので、
個々の学校の動きも校長先生次第なんだそうです。
参加している先生方の話には必ず校長先生の言葉が出てきて、「とんでもない判断ミスだ」や「適切な判断で助かった」と、学校ごとに状況が違うのです。

小中学校の先生は義務教育のこども達を預かっている立場なので、
誰より迅速な支援とより良い状況を求めています。
ですがその場の判断と決断が、被災地の人達の生活を左右するので、常に緊張しっ放しなのです。
「人員不足」、「一人にあてられた過重作業」、「自身の家族の心配などでノイローゼになりつつある」、「過労で倒れた人がいた」、など未だ大変な状況下にあります。
『被災地の中でさえ、これほど一人一人の考えが違うのか』と、取材活動に来て一番衝撃的な話を先生方から聞く事が叶いました。

我々はただ聞く事しか出来ませんでした。話をしている先生方の表情と言葉に顔を向ける事しかできませんでした。 本来この懇談会に「質問の時間」もあったのですが、もしあったとしても「それは本当に「質問すべき事」なのか?」と、逆に不審に思ったのです。

こうして懇談会は夜11になってから終わり、我々は帰路へと着いたのです。
帰路の車の中は口数は少なく、やり切れない気持ちが襲ってきました。
次の日はそのまま帰るだけだったので、今日のうちに収穫出来た事を生徒達はまとめました。
やり切れない気持ちはもちろんありましたが、その分「絶対、何か出来る事がある筈だ」という気持ちも同時に生まれたのです。 関東にいる仲間達に向けて、生徒達は論議に論議を重ねて情報をまとめてました。


帰ってきて早一ヶ月が経ちますが、未だにあの場にいた時の気持ちが何処かに残ってます。
「いまあの場所はどうなっているのだろう?」「少しは復興が進んだのだろうか?」
そういった言葉ばかりが浮かぶのです。

取材班の全員が居残り班の仲間に報告した事によって、他の仲間達も強く受け止めてくれたようで、
いまでは「つながり」が主題のワークショップを、一致団結で盛り上げていってます。

この被災地への取材の旅を終えてみて、
我々の見て聞いてきた事全て、一つも無駄なんて無かったと心からそう感じます。
初めに考えていた主旨も、新聞で拾ってきた情報も、全て必要な事だったから

そして19日にはまた東北へ、今度は被災地でワークショップをする目的で向かいます。
『今度こそ何か「つながり」を作ろう。』
少しでも早い復興と、人と人の「つながり」をつくる為に。



2011年 8月 9日 投稿 web班いのむ〜

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【7/11の取材班の活動】

『行動予定表』
10:00 石巻市内被災状況視察
10:30 女川町の病院をみる。撮影行動。
14:00 北上川河口のアートカフェ『川辺の散歩道』三浦頼子さんを訪ねる
15:30 石巻専修大学共創研究センター・大学開放センター訪問
18:30 「被災地のこどもを語る~こどもに今わたし達が出来る事~」
矢本駅前 みんなのお店『アゴラ』にて
石巻の小学校教諭 石垣好春先生 他4名
復興ボランティア活動をされている方々と交え懇談会
23:00 名取に帰宅


前日の衝撃から我々は未だに抜け出せずにいました。
重い面持ちで私達は石巻へと向かったのです。

移動して1時間程、私達は石巻市へと橋を踏み入れました。
辺りの木は潮の所為で(また汚染水の所為で)みんな枯れていました。
空気が酷い匂いで満ちていて、窓を開ける事が出来ませんでした。
色んな建物が、みんなみんな崩れていました。

文にして書くとこんな表現しか出来ませんが、現実はそれ以上です。
その中で復興作業に勤しんでいる人もいるので、忘れてはならない状況です。

その石巻市の中の荒廃した小学校の撮影に掛かりました。
小学校の周りもそうですが、火災で焼けた灰の匂いがマスクをかけても臭いました。
校舎は至る所に焦げ跡があり、浸水した潮の跡もハッキリと残って、
校舎の周りはガレキばかりで何も無くなってました。
その場は灰色でした。

小学校の取材を終えると、今度は病院の見学へ行きました。
海辺に近い丘の上に建てられた病院でした。
そんな高い所でさえ津波が越えて飲み込んだのが、病院の壁に残された潮の跡で分かりました。
当然丘の下は全て灰色でした。中には真横に倒れたビルもありました。
「おだづなよ!津波!」の文字を忘れる事が出来ません。

昼食後、石巻市の撮影を済ますと『川辺の散歩道』の三浦頼子さんを訪ねに行きました。
北上川に起った災害の話、近隣の小学校に避難しているこども達の話、地震が起る前と今の違い。
たくさんのお話を聞く事が出来ました。
三浦さんが保管していた被災直後の写真、『北上川』の水はとても濁っていました。
話の後に、三浦さんはアトリエとワークショップの出来るスペースを案内して下さり、
その上流木の素材がある事も教えて下さりました。

話を聞いていて、一昨日の心境であれば『尚のこと今進行してるWSを実現させよう!』と
考えていたのだろうと思います。
ですが昨日の衝撃以来、視界が変わった我々は(各々なので明確な事は言えませんが)
『これを使えばみんな楽しめるかな?』とか
『こういった事をすれば、もっとふれあえるかな?』などその場で楽しめるWSの事を考えてました。

こうして三浦さんに別れを告げた後、
私達は被災地の避難場所になった大学へとむかったのです。

(後編へ続く)


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(7/10 取材班の活動:前編の続き)

ヤマザキ先生と合流後、
宮城県立美術館にて斎正弘さんとの会談が始まりました。

前述載せた通り、我々は【葛藤】を持ち込んでいたので、
こども達と関わりの多い人なら、その答えを知っているのではと思ったのです。

ですが、そこでも我々は葛藤を抱え込む事になったのです。
斎さんもまた同じような問題定義を私達に投げかけました。
それは「ふれあい(コミュニケーション)の取り方」です。

「ふれあいをとることで話し合う」事に悩んでいた矢先でした。
その「ふれあいの取り方」も我々は不十分だったのです。
「どうすればこども達は喜んでくれるのか」、「こうすれば深く残ってくれるだろう」、
と一方的な想いが走っていたので、気持ちを受け取る側の想いを考え損ねていたのです。


こうしてその日の取材を終えて、我々は帰路へと立ったのです。
宿に帰って早々、生徒達は集まって相談をはじめました。
とにかく話し合わずにはいられなかったのです。

次いで出てくるのは、取材に来る前までの想い。
しかし「もっと違う」と生まれてくる『思いやりの意味』。
日を跨いでも話はつきませんでした。
そして我々は取材に来る前の企画を、また一から作り直してみる事に決めたのです。

昨日とは違う気持ちを抱えて、次の日の懇談会で何を思うのか。
一体何が生まれるのだろう...と、期待と不安を抱えながら解散しました。

次の日7/11に続きます。


P.S.
この日も小学校(荒浜小学校)の取材をしにいきました。
今度は学校内に入れるとあって、みんな記録を取るのに必死でした。
1階廊下の天井を見上げると土と枯れ草が張り付いていたり、
3・4階には非常食と空のペットボトルの跡があったり、必死に生きている跡がありました。
行き場の無い怒りが、その場所に残っていた。
でも黒板に書かれた応援の寄せ書きが『救い』でした。
『がんばろうみんな』

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【7/10の取材班の活動】

『行動予定表』
06:30 朝市見学 朝食
08:00 荒浜小学校見学 写真活動
10:00 ビーアイの関口玲子さん(ぞうかばさん)と会談
13:00 昼食(みんなでオムライス作る)
14:30 宮城県立美術館 斎正弘さんと会談
18:00 メディアテークにて見学 展示会を回る
19:00 居酒屋にて夕飯
21:00 帰宅


二日目の日。
風があまり通らず、蒸し暑い中寝ていたので、
目覚めはあまり良くありませんでした。


早速私達は朝市へ見学しにいきました。
着いた時、はじめは何かのお祭りかと勘違いしました。
とても賑やかでとても活気があったのを覚えています。

しかし、所々で地震の話や漁業の話が聞こえました。
昨日見た津波の爪痕もそうでしたが、被害は根付くものです。
私達は売られている海産物や特産品を見回りながら、その一時を過ごしました。


その日の午前、同伴していたヤマザキ先生と分かれた後、
「ビーアイ」の『ぞうかば』こと、関口玲子さんの所に訪ねに行きました。
思えば関口さんにお会いしてから、私達の『ボランティア・ワークショップ』の概念は
大きく変わったのです。

これまで「こども達の心の中に長期的に残るものを作り上げる」事を目的としていたのですが、
ふれあい(コミュニケーション)が成り立たないと、質問も話し合いも始まらない。」
と、その人は言ったのです。

現地調査班は、被災地の人々にも取材して質問を試みる役目が本来あったのですが、
何の関連も無い、知り合いですら無い人に、「質問・話し合い」が成り立つのでしょうか?
私達は人の心を簡単に考えていたのでしょう。
当事者でなければ分からない事を、本当に理解出来るのでしょうか?

心の中にいかに何かを残すのか・方法が重要ではなく、
大切なのは『寄り添う気持ち』。

思えば、傲慢もあったのです。
それまでは私達にとってもプラスになるように、思い上がっていた所もあったのです。
しかし、いざ被災地にきてみると現地とのギャップが大きすぎて、『長期的WSの定義』を改めて
「本当にこれでいいのか?」
と、自分たちに問いかけたのです。

結局、その場で答えを出す事は叶いませんでした。

私達は「ビーアイ」で、
関口さんのワークショップを体験して、お昼を御馳走になって、
その場を後にしました。


次の目的地へ向かう中、目的と現実との葛藤に話し合わずにはいられませんでした。
どうしても自分たちの中で変わりつつある物を、その時に保管したかったのです。
でもそんな短い時間で解決する訳がない。
結局、次の目的地で出逢う斎正弘さんとの会談時にもその葛藤は続く事になったのです。

(後半へ続く)

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グループ名
HN:
おもどっく
性別:
非公開
自己紹介:
[omodoc] とは、
女子美術大学メディアアート学科が立ち上げた子供支援アートプロジェクト。
「わたし達も何か出来る筈」、その想いを抱きながら今日も動きます。
ついった〜
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